■2011年8月21日 第5回 〜 講演「江戸東京野菜」 江戸東京・伝統野菜研究会代表 大竹道茂氏
◇東京の農業について
  • 東京23区の中にも、まだ11区、農地があります。都市の中の農地ということで、都市農業という言い方をしています。

  • 東京には山間部もあります。御嶽山の中腹あたりのところなど、いわゆる中山間地帯でも農業が行われています。

  • 小笠原も東京です。亜熱帯に近い島々でも、特徴的な野菜等が栽培されています。
江戸東京・伝統野菜研究会代表 大竹道茂氏
  • 東京は地形的に、東西に広い。昔の江戸川、荒川あたりの沖積地帯は、ゼロメートル地帯も含んでいます。西のほうには山間部があります。関東ローム層で黒土が5メートルくらいあるところでは、
    「練馬大根」や「滝野川にんじん」、「滝野川ごぼう」といった1メートルクラスのものが作られていました。このように、一口に東京といっても、非常に変化に富んだところで農業がなされてきた、ということです。

  • 特別なものは別として、今、市場に出ている一般的な野菜は、ほとんどが東京でも作られています。ただ、いずれも少量です。山のものから、海に近い亜熱帯地方のものまで、さまざまなものが栽培されているのが、東京の農業です。

◇江戸東京野菜とは
  • JA東京中央会で、「江戸東京野菜推進委員会」を作り、そこで、今、江戸東京野菜の定義を決めているところです。非常に曖昧ですが、「江戸期から始まる東京の野菜文化を継承しているもの」ということ。それから、京野菜、加賀野菜と差別化する意味でも、「在来の固定種」であること。また、在来の栽培法で作られた野菜に限定しようとしています。

  • 種苗の大半は自給、つまり、農家がタネを採っています。その他、種苗店はもちろんのこと、ジーンバンクにある東京の伝統野菜のタネも使っています。

  • 7月15日に、江戸東京野菜が商標登録されました。

  • 今、品種を特定している段階です。私のブログでは30数種類の江戸東京野菜を紹介していますが、中には、タネはあるけれど、市場に出すまでの量がないものもある。これらについては、生産者がある程度の供給体制に入った段階で認めていこうと考えています。

  • 「亀戸大根」や「金町小かぶ」は東京の周辺でも作っていますが、基本的に東京の農家を育成していこうとしていますので、東京の農家が生産するものに限定しています。

  • 江戸東京野菜には、ひとつひとつに物語があります。そうした江戸からの物語も、江戸東京野菜のひとつの売りにしていこう、と考えています。

  • 慶長8年、江戸に幕府がおかれ、人口が急激に増えました。徳川家康が、尾張や三河、駿河から、武士だけでなく商人、百姓までも連れてきた。従って、初期の頃は、10万人くらいの人が、急に集まったわけです。加工品は、「くだりもの」という形で関西方面から持ってきて需要が足りていたのですが、新鮮野菜はまかないきれませんでした。そこで、参勤交代がある程度定着する1630年代になると、各大名たちが国元から野菜のタネを持ってきて、下屋敷あたりで栽培を始めました。

  • 享保年間(1716〜36)には、「品川かぶ」、「品川ねぎ」、「目黒のたけのこ」、「内藤かぼちゃ」、「内藤とうがらし」、「鳴子うり」、「早稲田みょうが」、「練馬大根」、「雑司ヶ谷のなす」、「滝野川にんじん」、「滝野川ごぼう」、「谷中しょうが」、「三河島菜」、「寺島なす」、「亀戸大根」、「小松菜」、「砂村ねぎ」などがあったとされています。

  • 1700年頃、ロンドン、パリがまだ70〜80万のときに、江戸は100万都市、世界で一番の大都市でした。江戸城を中心として、村々に上記のような野菜の産地がある田園都市だったわけです。

  • 持ち込まれた野菜は、江戸の気候風土の中で栽培できるものが選抜淘汰され、改良されていきました。

  • 当時、何を江戸土産にしたか。国元の民、百姓が豊かになるという意味では、タネが一番お土産になりました。例えば、「練馬大根」、「滝野川にんじん」、「滝野川ごぼう」、「三河島菜」のような大きいものが国元に持ち帰られました。現在のJRの巣鴨から板橋あたり、この間の中山道は、タネ屋街道といわれて多くのタネ屋が集まり、中山道を行き来する旅人にタネを売っていた、ということです。つまり、江戸で作られたタネが全国各地に広まり、また新たな食文化を作っていったといえます。

◇江戸東京野菜〜練馬大根
  • 山形県の庄内には、干し大根というものがあります。歴史を見ると、これは、大名が江戸から持ってきた、と書いてある。ルーツは「練馬大根」だということです。神奈川県では「三浦大根」が有名ですが、「三浦大根」の一方の親は練馬大根です。同様に、加賀野菜の「源助大根」も一方の親は練馬系大根です。そのような形で、日本全国に「練馬大根」が広まっていきました。

  • 五代将軍の綱吉は、まだ将軍になる前、松平右馬頭(うまのかみ)といって、群馬県館林の城主でした。右馬頭が江戸でかっけになってしまい、医者に診てもらったのですが、原因がわからず、占い師に見てもらったところ、江戸城の北西の方向に馬のつく地名があるので、そこに御殿を建てて養生しろ、と…。調べてみたら、「下練馬」という地名があったので、そこで養生をした。現在も練馬には綱吉の御殿跡の碑があります。大名なので、その地へ行けば、周辺の民、百姓の生活が気になるわけです。畑は黒土で作物がよくできそうだということで、尾張から大根のタネを取り寄せて作らせてみたところ、地味にも合い、いいものがたくさんできました。これが、「練馬大根」の始まりだといわれています。取り寄せたタネは何だったか、諸説ありますが、現在は、愛知県の「方領大根」という説が有力です。

  • 昭和の初め頃の「練馬大根」の写真にはが、さまざまな形のものがあります。すらりとした細長い大根は現在も伝わっているいわゆる干し大根、たくあん大根。寸胴でどこを切っても均等な大きさになり、おでんの具などにはとてもいい大根は、「大蔵大根」のもとになったと思われます。ひとつひとつが、使い勝手によって残されてきた、というわけです。

  • 現在、「練馬大根」は、3種類が残っています。練馬区で、渡戸章さん、五十嵐透さん、白石好孝さんの3名の方がタネを採り、そのタネは練馬区が預かって、作る人に渡す、という形をとっています。栽培本数は15,000本程度と、ごくわずかです。4〜5年前から学校給食に使われるようになりました。ようやく土地の人たちも「練馬大根」を食べられるようになってきた、ということです。

  • 綱吉は、百姓たちに、「いい大根ができたらお城に献上するように」と言ったので、百姓にとっては「練馬大根」を作ることがひとつのステイタスになった。「いいものを作ろう」と、張り切るわけです。それもあって、「練馬大根」は、練馬になくてはならない大根になっていった。当時、それをどのように消費していたかというと、たくあん和尚が広めたたくあん漬けです。保存食としてもすぐれており、「練馬大根」といえばたくあん漬けになりました。明治になると、軍隊食に大量に使われ、第二次世界大戦まではたくあん漬けとしてたくさん消費されましたが、その後、連作障害で栽培できなくなってしまいました。そのため、キャベツの産地に変わった、という経過があります。

◇江戸東京野菜〜小松菜
  • 八代将軍の吉宗は、たびたび鷹狩りに出かけました。荒川区の東側に隅田川、さらにその向こうにある江戸川あたりに行っていたようです。吉宗が鷹狩りをして、ちょうどお昼どきになり、お腹が空いた、と…。どこかに何か食べられるところはないか、といっても田んぼの中です。ただ、こんもりとしたお社があって、そこに行けばどうにかなるか、と出かけていった。それが、新小岩の香取神社です。宮司に、「何か食べるものはないか」といったところ、餅のすまし汁に、庭にあった青菜を添えたものが出された。これを吉宗がたいそう喜んで、「これは何という菜だ?」と…。宮司が、「特に名もない土地の青菜です」と答えたので、吉宗が、「ここは小松川というところだから、小松菜にするがよい」ということで、「小松菜」になった、という歴史があります。今、香取神社の山門の脇には、説明板なども立っています。

  • 江戸川には、綱吉伝説といって、「小松菜」の名は綱吉がつけた、という説もありますが、綱吉は生類憐れみの令を出したほどの人ですから、鷹狩りはしなかったのではないでしょうか。

  • 小松菜は、「伝統小松菜」と、一般的な「小松菜」にわけられます。「伝統小松菜」のほうが古いのですが、既に「小松菜」は定着している野菜なので、これから伝統野菜の小松菜を栽培しようという人にとっては、「伝統小松菜」をあとから栽培することになります。そこで、「伝統小松菜」、「小松菜」と、名前で分けていこう、ということです。

  • 「伝統小松菜」は、病気に弱く、周年栽培が不可能、不揃い、収穫時に束ねにくい、販売時の日持ちが悪いなど、生産者にとってはいいところがありません。それに対して、現在の交配種は、これらの問題点をすべて解決した品種改良が行われています。北海道から沖縄まで1年中栽培されており、揃いもいい、収穫時も束ねやすい。「伝統小松菜」は、中から葉っぱが出てくると、外葉がどんどん寝てしまい、収穫時には、一回束ねないといけない。そのときの束ね方が悪いと、ぽきっと折れたりするので、3割収量が落ちるのだそうです。ただ、「伝統小松菜」を食べてみると、味も違うわけです。基本的に、「小松菜」は、チンゲンサイとの掛け合わなので、チンゲンサイが混ざっているものと、そうでないものの違いがある。「伝統小松菜」を食べた方は、「昔懐かしい」といってくださいます。まずいという方はいません。味でそれなりの評価をいただいて、リピーターも増えているところです。
◇江戸東京野菜〜うど
  • 東京うども、江戸東京野菜のひとつです。畑で栽培され、秋には花も咲きます。うどの花は、たくさん食べるものではありませんが、1輪くらい、さっとゆでて食べるとスパイシーでとてもおいしい。料理のワンポイントとして使う料理屋さんもあるようです。

  • 畑のうどは、霜が降りると枯れてしまいます。その様子を見ると、知らない人は、「畑に何か作ったようだけれど、枯らしてしまった」と思うかもしれません。ところが、枯らしてしばらく置いておくのが、うどの栽培のポイントなのです。掘り起こした休眠状態の根には、翌年の芽がたくさんついています。それを保冷庫にしまっておき、必要なときに出してくるわけです。昔は、地下3〜4メートルくらいの関東ローム層の赤土のところにさつまいもを保存していた。そこに、霜に当たったうどを寝かせていました。

  • うどは、山間部でも委託で作っています。あれは、いかに早く霜に当てるか、ということ。早く霜に当てれば、お正月に間に合う。昨年あたりは、東京だと、12月末でも霜に当たらないことがありました。そうすると、お正月には出せません。従って、早く霜が降りるところに委託しているわけです。

  • 休眠状態のうどの根っこは、むろに入れ、薪を焚いて、一瞬でもむろ内を40℃くらいまで暑くすると、春が来たと思って出てきます。

  • うどは、1年以上かけて作るものなので、農家の苦労から考えると、価格的には安いものではないでしょうか。八百屋さんにも、ぜひ積極的に販売していただきたい、と思っています。

◇江戸東京野菜〜奥多摩わさび
  • 「奥多摩わさび」も、最近評価されてきている江戸東京野菜です。東京には、雲取山という2,018メートルの山があり、頂上部分が、埼玉県、山梨県、東京都にわかれています。その東京都部分の山懐に、わさび田があります。

  • 石で積んだ段々のわさび田で、江戸時代からの形です。江戸時代は、ここで作ったわさびを炭俵のようなものに入れて筏にのせ、多摩川を下って六郷まで持ってきました。六郷には神田市場から船が来ていて、それに渡して運んだ、という歴史があります。

  • 私は去年、雲取山のわさび田に行ってきました。1,200〜1,300メートル地点にあるわさび田で、モノレールで行くしかありません。江戸時代に思いを馳せると、相当大変だったと思います。

◇江戸東京野菜〜品川かぶ
  • 2006年に、日本橋の割烹「ゆかり」の野永喜一郎さんから、「京野菜、加賀野菜があるのに、江戸の野菜はないのか」といわれました。東京の割烹店の7割は味が京風で、「ゆかり」のご子息も京都で学んできたので、当初は京都の食材を使っていたそうです。当時、「ゆかり」では築地に仕入れにいっていたのですが、調べたところ、江戸の野菜は、「小松菜」、「練馬大根」、「千住ねぎ」、「滝野川ごぼう」くらいしかなかった、と…。「江戸の野菜はこれしかないのか? もっとあるのなら作ってほしい」と頼まれました。

  • 「昔から伝わる野菜のタネは大事だからとっておきなさいよ」と農家にすすめる活動は20年くらい続けていたのですが、野永さんのように、その野菜を使ってくれるという方がアプローチしてきてくれたことで、そこから江戸東京野菜の普及を積極的にやるようになりました。

  • 2007年4月には、野永さんたちが、日本橋の橋の上で、江戸東京野菜の即売をやりました。その模様が「日経MJ」に載ったことで、流通関係の方々にも注目され、そこから江戸東京野菜にある程度火がつきました。日本橋から江戸東京野菜をブランド化したい、という野永さんたちの思いがどんどん広がっていった、といえます。

  • こうした流れのひとつとして復活したのが「品川かぶ」です。今、品川神社にこの説明板が立っています。

  • 1802年、文化時代の古い本「成形図説」に、「品川かぶ」のことが載っています。

  • 東京には、「東京長かぶ」、「滝野川かぶ」という同じようなタイプのかぶがありました。昔はタネがあちこちに移っていたので、滝野川にあるということは、品川にあったものが向こうにいったんだろうというひとつの仮説を立てて、品川の大塚さんという八百屋さんが、品川では「品川かぶ」のブランドで売っていこう、と活動を始めました。今、品川区内の小学校で、たくさん作られています。小中一貫の伊藤学園の屋上でも栽培され、現在、区内の学校給食で使われているそうです。「品川かぶ」は、「亀戸大根」と似たような形ですが、葉っぱが実の2倍くらいあるかぶです。

  • 品川区の区長さんが、「品川かぶ」にかぶりついている写真がインターネットで公表されています。「品川かぶ」でケーキを作ったり、餃子にしてみたり、まんじゅうにしたりと、みんなが面白がって町おこしをしたんです。ですから、みなさん方も町おこしのために、ぜひ何かやってみてください。農家がいるところは農家がやるでしょうが、農家がいないところでは、八百屋さんがこうした取り組みをしています。わわれも、いくらでも協力します。

  • 品川の八百屋、大塚さんは、「品川かぶ」2つに、品川神社のおみくじを添えて、お正月に境内で売り始めました。2つセットで500円と、いいお値段です。でも、「これを買っていったらあなたのかぶが上がるよ」などと口上を述べて売ると、すぐ完売したそうです。1年目に買うと、「去年いいことがあったから、また買おう」となるんですね。もう3年くらいになると思いますが、ここのところずっと完売のようです。

  • 「品川かぶ」は定着して、携帯ストラップなども出てきた、と聞きました。また、築地でも、「品川宿の伝統野菜 品川かぶ漬け」として、1本漬けを出したところ、即完売だったそうです。葉っぱが実の2倍くらいあるかぶなのですが、野沢菜もかぶですよね。ですから、葉は野沢菜と同じ食感なんです。もちろん、出した量が少なかったこともあるとは思いますが、注目されているのは確かではないでしょうか。
◇江戸東京野菜〜寺島なすと雑司ヶ谷なす
  • 浮世絵、江戸名所百景の中にある「木母寺内川御前栽畑(もくぼじうちかわごせんざいばた)」は、浅草の東の北くらいのところの風景で、「御前栽畑=将軍の畑」という意味です。隅田川の流域は非常に肥沃な土壌で、作物が何でもよく育ちました。このエリアにある白鬚神社には、「寺島(てらじま)なす」の説明板があります。

  • 三鷹の星野直治さんというなす農家が栽培を指導して、第一寺島小学校で、「寺島なす」を復活させました。なすが苦手という子どもは多いのですが、自分たちが作ったものだから…と、食べてくれました。

寺島なす
  • 「寺島なす」を復活させたとき、星野さんの畑で、このなすは売れるものなのかどうなのか、悩みました。大きいのがあったり、小さいのがあったり、とにかく揃いが悪いんです。でも、野永さんを始め日本橋の料理屋のみなさんや、野菜と文化のフォーラムの「野菜の学校」のみなさんに「寺島なす」を食べていただいて、「千両なす」と比較してもらったところ、「寺島なす」は加熱するととろみが出ておいしい、という評価をいただき、これなら売れる、と感じました。

  • 東京都農林総合センターが所蔵する明治時代の細密画に、「蔓細千成(つるぼそせんなり)」と書かれているのが「寺島なす」で、「山なす」が「雑司ヶ谷なす」のことです。「山なす」というのは、山の中のなすという意味ではありません。江戸で「山」というと、西山といって、中野、豊島、練馬あたりを指しました。そのあたりでできたなすなので、「山なす」という名前がつけられました。

  • 「雑司ヶ谷なす」は、今年から始めました。雑司ヶ谷の千登世橋中学校で栽培が始まって、自分たちが作ったなすを食べているそうです。雑司ヶ谷の大鳥神社に説明板があり、神社ではプランターで「雑司ヶ谷なす」を栽培もしている、ということです。

  • 「雑司ヶ谷なす」は、実がしっかりしていて、皮がかたいのが特徴です。昔のなすの食べ方を見ると、皮をむいているものがあります。もちろんそのまま食べたこともあったでしょう。現在、「雑司ヶ谷なす」は、大泉の加藤さん、南田中の榎本さんという方が栽培している、ということです。

  • 先日、料理研究家の林幸子先生に「雑司ヶ谷なす」と「千両なす」を食べくらべていただき、「雑司ヶ谷なす」は、アクや苦みなどを含めて、魅力的な野菜という評価をいただきました。「雑司ヶ谷なす」を使った料理、塩味のお蕎麦も作ってくださいました。それを受けて、大塚の小倉庵さんが、「甘茄子のなる頃」(750円)というなすの冷やがけをメニューに出して、評判のようです。江戸東京野菜をいろいろと扱ってくれている押上の「よしかつ」では、揚げ浸しなどで、「寺島なす」と「雑司ヶ谷なす」の2種類をメニューで出しています。アクなどが加熱することによってうま味に変わるような奥深い味でおいしい、とのことです。服部幸應先生にも、江戸東京野菜、地場野菜については、ご理解をいただいています。

  • 東京で伝統野菜を栽培してくれている農家は、たっぷりと堆肥を入れたり、ネットを張って野菜の栽培をしたり、害虫のオスをフェロモンで誘引して交尾させないようにしたり…。さまざまな工夫をして、知事からエコファーマーの認定をもらっている方が数多くいます。今、こうした農家を中心に、江戸東京野菜の普及をしているところです。最近ようやく、いろいろなお店でも取り上げてくれるようになりました。東京都が地産地消の応援店募集を行い、今、99店舗が登録されています。また今年も新たな募集をしていると聞きました。みなさま方にもご協力いただき、ぜひ、江戸東京野菜を普及していただきたいと考えています。
◇質疑応答より
  • Q:江戸東京野菜は年間供給できるのですか?
  • A:今、江戸東京野菜で、1年中あるものは少ない。季節限定のものが多く、それが売りにもなっています。一時期にたくさん出てくるのは、11〜12月。根菜類などが多くなります。夏場は、「寺島なす」と「雑司ヶ谷なす」の2つが頑張ってくれています。これまでは、「馬込半白きゅうり」と「谷中生姜」ぐらいでした。これらは、1ヶ月もすれば終わってしまいます。ですからメディアの取材が来ても、夏は何もない、ということが多かったのですが、なすが復活してからは、5月末から11月くらいまでずっとなりますので、話題には事欠きません。

  • Q:伝統野菜の生産量を増やすような試みは?
  • A:今はまだ、そこまではいっていません。伝統野菜は、それなりの意識がある農家でなければ作れません。伝統野菜は貴重な遺伝資源だから残してください、ということでお願いしてやってもらっています。ただ、おかげさまで、消費者からの「食べてみたい」というラブコールはたくさんいただいています。また、認証制度もできたので、そうしたことを頼りに普及していきたい、と思っています。

 

 

【八百屋塾2011 第5回】 実行委員長挨拶講演「江戸東京野菜」|勉強品目「なす」「ぶどう」|商品情報食べくらべ