■2018年12月9日 第9回 「第2回 やっちゃば秋葉原〜学べるマルシェ〜 山東菜市」 辻講釈「江戸野菜」 講談師 田辺一乃氏
◇大江戸青物市場
 神田青物市場の由来の一席を申し上げます。

 徳川家康公、江戸へと幕府をお開きになり、慶長18年、伊勢松坂から青物問屋さんを呼んできて、神田多町というところに青物市場を開きました。本能寺の変のとき助けてくれた伊勢の人たちに、「必ず力になるから」と言った約束を果たしたのだといわれています。

 一番多いときには神田多町に90軒以上もの青物問屋が軒を連ねました。だんだん江戸が開けてくると神田だけでは追いつかないということで、千住、駒込、京橋、本所と青物市場ができ、江戸の人々の野菜を取り扱いました。

講談師 田辺一乃氏

 伝統ある神田の青物市場は、明治時代になってもその勢いは盛んでしたが、大正時代の関東大震災で一面焼けてしまいました。そのときに引っ越しをして、電車が通って繁華になっていた秋葉原に市場を移し、盛んに青物を取り扱いました。平成の世になって街の再開発が行われ、神田の青物市場は姿を消しましたが、今日ここにこうして復活したわけです。

 今日の会場となっている場所も青ものやお米に所以のあるところです。公園の下は、昔は運河でした。線路をくぐった向こう側は、お堀のようになっていて、船が着きました。貨物で持ってきたお米を船に乗せて江戸市中に運んだといわれています。

 徳川幕府、家康公によって開かれた神田青物市場。その後、江戸の中にはたくさんの野菜が名物として誕生します。これからその野菜についてお話したいと思います。

◇五代将軍徳川綱吉と練馬だいこん
 五代将軍徳川綱吉は「犬公方」と呼ばれ評判が悪かったのですが、案外いい人だったのではないかと、最近、再評価されています。綱吉公のお母さんは「桂昌院」といいますが、もとは京都の八百屋の娘で、「お玉ちゃん」という名前でした。赤ちゃんのころにお母さんが亡くなってしまい、お父さんが野菜を売り歩きながらお玉ちゃんを育てていました。あるとき、六条のお大臣のお姫さまが赤ちゃんだったお玉ちゃんを見て、妹にほしいと頼みました。お大尽のところに行けば乳母が付きますので、お父さんも喜んでお姫さまにお玉ちゃんを託しました。このお姫さまが、春日局の目に留まって江戸に着いていき、のちに家光公の側室として赤ちゃんを産みました。この赤ちゃんがのちの綱吉公です。名前がお玉ちゃんだったので、女性が出世をすることを「玉の輿」というようになりました。桂昌院ゆかりのお稲荷さんが江戸城の中にあり、多くの女中さんが自分も出世がしたい、と拝みました。その神社はこのすぐ裏手にあり、福寿神社といいます。祠は小さいですが、その前に大きなタヌキがいるのですぐわかります。お稲荷さんなのにタヌキが守り神なのはなぜかというと、「タヌキ=他抜き」。他を抜く、ということで、出世のキーワードなんです。神田川を渡ると古い神社があります。その中のタヌキ神社、お時間があればぜひ参拝してみてください。
講談師 田辺一乃氏

 綱吉公は、将軍家になる前は館林藩のお殿さまで、神田お屋敷がありました。あるとき、綱吉公はかっけにかかってしまいました。かっけはビタミンB欠乏症で、白米ばかり食べているとなってしまうようですが、当時はそんなことはわかっていませんでしたし、人が集まるところにかっけが多いため伝染病ではないかともいわれていました。

 自分の息子がかっけで苦しんでいると聞いた桂昌院さま、このときは髪を下ろし筑波のほうのお寺に入ってましたが、一生懸命神さまにお祈りをしたところ、ある日夢を見ました。それを陰陽師に占わせたところ、「病の治るきっかけは江戸城西側の馬にゆかりのある地にある」とのこと。さっそく江戸の綱吉公に御文で伝え、綱吉は家来たちにいろいろ調べさせました。すると江戸城の北西に「練馬」というところがあるとわかり、家来と共に行ってみました。練馬の大百姓の家でお屋敷から持っていったお弁当を使わせてもらいました。そのときに出てきたのが、ちょうどそのころ江戸で流行り始めた「たくあん漬け」でした。綱吉公は初めてたくあん漬けを召し上がり、神田のお屋敷に帰ったら、かっけが少しよくなっていた。たくあん漬けは米糠でつけますからビタミンB1がよく染みていたのでしょう。

 綱吉公は、練馬でご飯を食べると元気になるということで、練馬に小さなお屋敷を作らせて、たびたびお出かけになりました。その頃、尾張徳川家からもらっただいこんのタネがあり、練馬のお百姓さんたちにわけ与えたところ、三河では一尺ほどの普通の大きさのだいこんだったのが、土がよほどよかったのか、三尺にもなったため、百姓たちも喜びました。

 昭和になり、いろいろな野菜が規格品になっていきましたが、「練馬だいこん」だけは、地元で主にたくあん漬けに使っていたので、規格外でも二股でも全く問題がありませんでした。というわけで、今も練馬の地に脈々とそのだいこんが残っています。

◇徳川家康公となすのしぎ焼き

 なすは将軍家ゆかりの野菜です。「一富士二鷹三茄子」といいますが、これは徳川家康公が初夢に見たもの。富士山、鷹狩りはわかりますね。なすびは何かというと、家康公はなすびが大好きでした。それも早採れのなすびが好きだったので、お百姓たちはこぞって早採れを作りました。ふつうは工夫して日当たりのいいところで作っても4月くらいにやっとできたのですが、駿府のお百姓がうまくお正月に献上できるなすを作りました。ただ、大変手がかかっており、1個1両もするほど高価だったそうです。倹約家として知られる家康公、いくらなんでも高いと思いながらも、もっぱら「しぎ焼き」にして食べていました。「しぎ」とは鴨のことで、しぎ焼きは鴨となすを炒りつける料理です。あるとき、たまたまお台所に鴨がありませんでした。その頃、家康公はだいぶご高齢になっており、「年寄りを待たせるな。しぎはいらん。なすだけ油で炒りつけてまいれ」と作らせたところ、なすだけでもおいしかったので、しぎが入っていなくても「しぎ焼き」と呼ばれるようになりました。

◇品川かぶ汁
 その昔、品川沖で陸奥の国、川内の船乗りさんたちが乗った船が遭難してしまいました。品川の漁師さんたちがなんとか救ったのですが、秋も深い頃で体が冷え切っています。浜辺の漁師小屋でたくさんの火を起こし、乾いた手拭いで体をごしごしこすっているところに漁師のおかみさんたちが大鍋で持ってきたのが、「品川かぶ汁」。これは「呉汁」、お味噌汁の中に煮た大豆やお豆腐をすりつぶして入れたポタージュのようなもので、名物の品川かぶの実と葉を細かく刻んだものが入っていました。品川かぶ汁のおかげで体が温まり、残念ながら息を引き取ってしまった船乗りさんもいましたが、多くの方は助かりました。

 やがて船も修繕され、川内の船乗りさんたちは、品川の漁師さんたちにお礼を言って、陸奥の港へと帰り着きました。そして、涙ながらに品川沖で失った仲間たちのお弔いをしたそのとき、品川で命を救ってくれた温かいおつゆを、弔いに来てくれた人たちに出しました。品川かぶはありませんので、地元の野菜を刻んで入れたものです。それを食べた人が、「こりゃ温まるねぇ、なんという汁だ?」「品川の人たちは"ごじる"と言っていた。江戸の人たちは洒落ているから、御御御付(おみおつけ)のような丁寧語だろう。だからきっとこれは"御汁(ごじる)"、つまりただの汁だ」「ただの汁では面白くないから、品川汁と呼びましょう」。ということで、陸奥の国には、この汁が「品川汁」としてずっと伝わっていました。

講談師 田辺一乃氏

 平成になり、品川の人たちが町おこしのために品川汁を使いたい、と考えました。ただ、品川汁がどういうお汁かは伝わっていなかったので、わからなかったそうです。そこでインターネットでいろいろ情報を集めていたら、青森の川内の人たちが、「うちの地方に伝わっている品川汁のことだろう」と電話で教えてくれたそうです。

  こうして、品川では、お祭りなどで人が集まるときに品川汁がふるまわれるようになりました。呉汁は手間がかかるので、豆乳をお味噌汁に入れているそうです。

 「品川かぶ祭り」は、12月23日(日)に品川神社で開催されます。周辺の小学校、中学校、福祉施設などで作っている品川かぶのコンテストをして、そのあとにみんなで品川かぶ汁をいただくとのことですので、みなさまもぜひ足をお運びください。

◇千住一本葱幽霊
 「九条ねぎ」に代表される関西のねぎは青ねぎです。家康公が江戸幕府を開いた後に関東に入ってきましたが、京の都より寒い江戸では、葉が茶色く枯れてしまいました。そこで葉が枯れないようにと土をかぶせたら、白くなりました。それを食べてみたところ、おいしかったんですね。それからだんだん土をかける部分が多くなり、今、関東のねぎは白い一本ねぎになりました。
講談師 田辺一乃氏

 かつて千住にも青物市場があり、周辺でとれる千住ねぎだけを扱うねぎ問屋が軒を連ねていました。そのうちの一人が、やもめの善兵衛さんです。師走の寒い晩、寝酒をやって休もうかなという時分に、トントンと戸を叩く音。こんな時間に誰かと思って起きていくと、若い女の声で「恐れ入りますが、ねぎを一本売ってくださいまし」。「うちは問屋であいにく小売りはしていない」と言っても、「一本だけでいいので売ってください」と聞きません。仕方なくくぐり戸を細めに開けると、まだ値段も言っていないのに、女の手で一文銭が差し出され、ねぎ一本を引き換えに渡しました。髪はざんばら、白っぽい着物でしょんぼりとしています。「夜中に旦那に酒の肴を作れとか言われて無理矢理来させられたのかなぁ、気の毒に」と思っていたら、次の晩も扉を叩く音がして、また昨日の女の人です。今度は怒っているような声で「あの、すみませんけど、ねぎを一本売ってくださいまし!」。「何度も言うようだけど、うちは問屋ですから小売りはしていないんですよ」と善兵衛さんが言うと、「売ってくれないならこっちから行きます!」と、重い木のくぐり戸をすっとぬけて、女の人が目の前に立っているではありませんか。「なんだ、お前幽霊か!」と善兵衛さん。「聞かれたから言いますけど、そう、私は幽霊です」。聞けば、惚れた男が二股をかけていたので死んで祟ってやろうと思い、死んだら幽霊になってしまった。男のところに化けて出たのに、全然幽霊っぽくないから帰れ、と言われ、千住ねぎを食べて、ねぎみたいな白くてすっとした幽霊になろうと思って、おじさんのところに昨日ねぎを買いに来た、と言うのです。

 善兵衛さんが「昨日ねぎを食べてみてどうだったんだい?」と尋ねると、「食べたら辛かった。しかもお寺に戻れなくなった。悔しいからおじさんのところに毎晩化けて出てやる」と女幽霊。ちょうど自分の酒の肴を作っていた善兵衛さん、「ねぎを一本食べたらそれだけツンツンけんが出たんだから、何とかなるかもしれないな。よし、ねぎを料理して食べさせてやろう」と、白髪ねぎに熱い油をかけまわしたものを食べさせると、女幽霊は白髪ねぎのようにシュッと細くなったような気がしました。そこで、今度はねぎとマグロの脂身を合わせた「ねぎま」を作りました。マグロの脂身は、今はトロといって高級なところですが、昔は捨てていたんです。女幽霊が「ねぎま」を食べると、「なんだか透き通ってきて、息も生臭くなってきたかも」。次に、ねぎの青いところを炒りつけて食べさせると、青白くなり、最初は不細工だった幽霊が、あやしくもおどろに美しい幽霊になりました。

 「うまくいったようだな。その姿で化けて出たら男も怖がって、しかもこんなきれいな女を袖にしたのかと後悔するだろうよ」と善兵衛さん、景気付けに女幽霊に一杯酒を飲ませて、「最後にとっておきのやつを食べさせてやろう」と出したのが、ぶつ切りにしたねぎの炭火焼でした。外側は真っ黒ですが、皮を1枚はげばカリカリで、中はトロットロ。塩をパラリと振って一口食べると、女幽霊の体がキラキラと輝いて、スーッと見えなくなってしまいました。「あれ?どこに行った?うまいねぎを食って化けに行ったか、それとも成仏したか…。口ではああ言ったけれど、俺は毎晩あの女幽霊に化けて出てもらってもよかったんだがな」と善兵衛さん。これが「千住一本ねぎ」、幽霊の一席でございます。

 

【八百屋塾2018 第9回】 挨拶辻講釈「江戸野菜」山東菜の模擬競売アルバム-1アルバム-2アルバム-3