その大手量販店はもとが洋品店でしたから、接客がわれわれとは全く違います。洋品店の場合、しっかりお客さまに商品を説明しても、何も買わずに「また来るわ」という方も多い。われわれの店は、元気よく「いらっしゃいませ」といえば接客の8割は終わりで、99%の方が何か買って帰られます。
ですから、価格が安いだけでは量販店には勝てません。大手量販店が目の前にあるので、価格が安くなくてはいけませんが、安いだけでは生き残れない。普通は、共同仕入れが目的で集まります。共同仕入れとは、大勢集まると安くなるということですから、軸は「利」です。もし、普通のスーパーマーケットが相手だったら、価格のみが目的で、共同仕入れだけで終わってしまったと思います。
では、どうやって経営の有り様を変えていくか。店には、利益が残らなければ話になりません。経営は当然ながら売上だけではないんです。そういう意味では、経営の中身をきちんと組み立て直さなければなりません。それが最初の頃からわかっていました。
いま、全日食チェーンは2000店ちょっとですが、最初は26人で、20代は私一人でした。ほとんどが働き盛りの40代前後で、文字通り、第二次大戦の戦火をくぐって生き残ってきた方々ですから、なんとしても生き残るという覚悟が違います。
「景気より天気」とよくいいますが、気温が少し変われば、売れるものが変わります。生き残っていくためにいちばん必要なことは、お客さまのニーズがわかることです。いま、いちばん問題になっているのは、「量」です。東京都の家族構成は、1.99人です。うちの地域は1.83人。1家族2人に達しない。昔は、祖父母と両親、孫も2〜3人いて、その中での食事でしたから、食事が家族の団らんの場にもなりましたし、お袋の味が伝わったのですが、いまは成人すると子どもはマンションへ引っ越して行ってしまいます。2人もいない家庭に対する食の提供ですから、いくら安くても、量が多くては売れません。時代によって提供の仕方は変わっていくわけです。
われわれは小さな店ですから、量で勝負することはできません。もし、1ケースでは仕入れられず、100ケースならいいのであれば、100人で買おうということになり、だんだん増えていって、いま、2700ほどのネットワークがあります。
2000店は北海道から西表島まで、広がっていますが、毎日わずかな商品でも届けます。牛乳10本だけでは届けられませんが、野菜も魚も牛乳もラーメンもすべて1ロットにして届ける全品供給という体制で、ピース・ピッキングのような小さな発注でも毎日モノが届くのが前提です。広域物流ですから、仙台のセンターがダメでも、茨城の首都圏センターから届きます。この「届ける」ということがとても大事だというのが、われわれのスタートのときからあったわけです。
いま、「買い物難民」と盛んにいわれますが、「仕入れ難民」もたくさんいます。千住の市場の周辺には、かつて、食品問屋がたくさんありましたが、全部なくなりました。問屋さんで自分の資本でやっているのは、国分さんだけといわれています。あとは全部、商社の資本が入っています。問屋と小売店は親子のような関係でしたが、いまは商社です。問屋と商社では、コスト計算が違います。合わないところにはモノは届きません。
われわれの加盟店の中に、伊豆半島の先のほうのお店があり、その地域ではいちばんのお店ですが、いままでの問屋さんが商社の傘下に入ったとたんにモノが来なくなりました。天城越えをしてモノを運んでも、合わないわけです。それで、全日食に入りました。
3.11のときに何が起きたか。東北全体だけでなく、茨城、千葉など関東近郊の問屋、市場、コンビニ、すべてが打撃を受けました。被災したのは店だけでなく、商品を作っている側も同じだったので、売り場からモノがなくなりました。支援物資もなかなか届かない。そういう中で、われわれ全日食チェーンでは、お店が傾いていても、翌日には品物が当たり前に届いていました。
ライフラインというと、ガス、水道、電気。それは間違いないのですが、本当の意味でのライフラインは物流です。物流は人任せではいけません。問屋さんのコストが合わなくなれば、それが値段に反映されたり、供給を打ち切られたりします。ですから、モノを運ぶ手段が自分の手の中にないといけません。全日食の加盟店が増えてきて、最初に社員を雇うことになったとき、まず入れたのは運転手でした。
こうしたことにより、われわれは生き残ろうとしているのですが、それにもかかわらず、地域から商店が減っていっています。うちの商店街には約200軒の店舗がありますが、おかげさまで空き店舗はありません。北千住には7万人ぐらいの人が住んでいます。近くに大手量販店が3軒あって、駅ビルなどもあります。その中で、家族経営の店が生き残っていくのは大変です。ものすごい勢いで人が入れ替わります。大手量販店のある商店街と、うちの商店街はつながっているのですが、量販店のほうの商店街は95%がテナント、うちのほうは、半分くらいは自分の家で商売をしている方です。テナントが増えていく中で、地域活動は誰がやるのか。そういう問題も起きています。
よく見ると、街は変わっているんです。世代が変われば、食べるものも変わります。全日食の中でも、非常に勢いのいい店が辞めていくことがあります。売れている人は自分のやり方に自信を持っています。でも、店そのもの、商売そのものに賞味期限がある。提供の仕方をお客さまに合わせてしょっちゅう変えていかないと、生き残れません。
いま、テナントで出てくる店はほとんどが若い人向けの店です。シニア層はけっこうコンビニエンスストアに行きます。20歳のときにコンビニが狙った世代ですから、40年経って、いま60歳。彼らにとって、コンビニは使い慣れた店です。客層に合わせて提案するモノを変えている。いま、コンビニは惣菜と生鮮に一生懸命で、八百屋や魚屋がなくても困らないという状況が出かかっています。
私は、撤退をしたこともあります。以前、江東区の白河、区役所通りに出店したのですが、量販店が進出し、区役所が移転してしまい、人通りが減ってしまいました。近隣の酒屋、雑貨屋、電器屋が辞めてしまい、うちの店だけになりました。そうなると、うちのお店が目的の方は来てくれますが、区役所に来るついでに立ち寄ってくれたような方は来なくなります。競争の激しいところに行きます。ですから、競争は絶対に必要です。周囲の店が辞めて、客数が減り始め、撤退を決めたのですが、撤退時は、出店するときぐらい出費が発生します。
商店は1軒では成り立ちません。通行人がちょっと立ち寄ってくれればお客さまになるわけですから、立ち寄るきっかけをどう作っていくかがどの商いでも必要です。それが、三金さんやコヤマさんが取り組んでくださっている「ワン・ウォール」という壁店舗です。のちほど、三金さんの例をビデオでご覧ください。八百屋さんの中には、スーパー形式にしている方もいますが、野菜だけを並べて、壁をほとんど使っていない方も多い。お客さまにとって、立ち寄らずにはいられない店に変わるきっかけができれば、と考えています。
「ワン・ウォール」では、客層にあったモノが並んでいる。コンピュータでデータを出していますから、大丈夫です。売りたいモノを売るのではなく。お客さまが買ってくださるモノを置くわけです。特売はしません。価格を変えずに売り抜いていけば、チラシをまかなくても、次第に口コミで広がっていくだろう、と考えています。おそらく、売上個数は3〜4ヶ月で倍ぐらいにはなると思います。
自動発注、自動入力ですから、全部コンピュータがやってくれます。売れた分だけ、翌日の陽気や客数に合わせて商品が届きます。例えば、豆腐は、気温18℃を境に、冷ややっこか湯豆腐か分かれます。それにより、野菜も売れる商材が変わってきます。
コンピュータがはじき出したモノを並べるだけで、自分はチェックをするだけです。ほんの20分くらいで済む仕事なので、人も増やさなくていい。いちばんの狙いは、通りがかりのお客さまに、「あれ? この店、何か変わった」と、小さな驚きを与えることです。特売ではなく、日々の価格訴求の中で、「この店でいいんだ」という安心感をどう作っていくか。これが、われわれの実験なんです。
商店街は、だんだん駅よりになり、裾のほうからなくなっていきます。でも、裾のほうにはまだ人が住んでいるんです。とにかく、お店が残るということ。店をどうやって流行らせるかも大切ですが、お客さまをどうやって増やすかも大切です。売上ではなく、立ち寄っていただく方を増やす。高齢者も立ち寄れる状況を地域の中で増やしたい。地域の方は、本当に、話し相手がほしいんです。「うちの八百屋さん」といえる店が生き残っていないと、地域社会がなくなってしまいます。
そうした中で、農水省の補助事業が始まり、去年、「小規模企業政策」が出てきたのですが、アベノミクスで、モノ作りのほうにすべての補助金がいってしまいました。その後、ようやく商店も追加され、われわれも国の施策の対象になりました。
小売だけが大変なのではなく、問屋さんも大変です。お互いに供給先が絞られる中、連携できることは連携して、ともに生き残っていく。地域の軸になる状況を作ってください。多少の投資は必要ですが、2/3は国の補助金でまかなえますので、ぜひ取り組んでみていただきたいと思います。
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