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■2023年3月19日 第12回 修了式 〜 記念講演「都市農業の現状」 ファーム渡戸 渡戸秀行氏
◇都市の農業について
私は1989から4年ほどJA東京中央会に勤め、2022年の生産緑地法の改正から起きた一大農政運動「2022年問題」に関わりました。
32歳ぐらいのとき、農協青年部の都政協の委員長も務めました。当時、会員は約2000人。話す相手は東京都、農林水産省、国土交通省などで、いろいろな農政運動に関わってきました。
現在は練馬で農業をしており、農地は1ヘクタールくらいあります。
ファーム渡戸 渡戸秀行氏
都市の農地の歴史をたどると、1945(昭和20)年に終戦、GHQの管理下にあった当時は小作制度で、戦後の食糧難と小作料の支払いに、農家は大変苦労しました。そこで国が大地主から安く土地を買い、小作農を自作農にした結果、意欲が高まり、食料難が解消していったのですが、弊害として、都市近郊に畑を持っていた小作農の多くが、土地が売って廃業してしまいました。
1950年後半から60年代にかけて、都市化が急速に進み、下水や水道、電気、ガスといったインフラの整備が必要でした。そこで、1968(昭和43)年に「都市計画法」が施行され、東京の農地はほとんどが10年を目途に開発する、という都市計画に組み込まれました。農地の価格は高騰し、それに伴い固定資産税も上がりますから、農政運動が非常に活発になりました。
固定資産税の上昇によるもうひとつの弊害は、相続税です。当時は納税猶予制度がなく、農地を相続すると莫大な相続税のために、農地をほとんど手放さなければなりませんでした。そこで、農家や農協など、国会に大要請活動を展開した結果、1970(昭和45)年に「農地法」が改正され、農地の転用を農業委員会の許可制にし、宅地並み課税の免除を要請することになりました。
1968(昭和43)年に「都市計画法」、1974(昭和49)年に「生産緑地法」ができて、指定を受けたところは、宅地並み課税が免除され、固定資産税についてはクリアしました。相続税は、1975(昭和50)年に「」相続税の納税猶予制度」が制定され、20年間農業をすれば相続税は払わなくてもいい、と。農家にとっては、とてもいい法律ができました。
平成のバブル時期に土地が非常に高騰し、偽装農地が現れました。相続税を逃れるために、梅や栗、芝生を植え、ほとんど管理もせずに農地とする行為で、この問題から法律は改正されました。
1988(昭和63)年に長期営農継続措置の見直し、1992(平成4)年に、「生産緑地法」の改正が行われました。それまでの条件「20年営農」は「農家の主たる従事者が亡くなるまで」になりました。次の方が相続税納税猶予制度に入れば、農地として維持する場合はずっと納税猶予を受け続けられます。
1994(平成6)年を期限として、所有する農地を宅地化と保存に分けることになりました。宅地化する農地の固定資産税は宅地並み、生産緑地を選択すると、亡くなった時には相続税納税猶予制度が適用されます。ただ、20年の縛りはなくなり、死ぬまで続ける必要がある。非常に重い選択です。たとえば、兄弟に家を建てる場合、生産緑地を外すわけですが、宅地並みの課税は、農地の100倍から200倍ぐらいの固定資産税がかかります。
当時、東京都では、7割ぐらいの農地が生産緑地に入ったと記憶しています。30年後、生産緑地制度はさらに改正され、「特定生産緑地制度」になりました。宅地化か、農地か、10年ごとに判断する制度です。1992年からの営農義務が終わる2022年問題で、生産緑地が解除され、多くの農地が出るのではないか、と思われていましたが、1996(平成6)年に残すべき農地とした生産緑地はほとんど維持できました。農家にとっては、非常によい制度だったと思います。
自然減はあります。特定生産緑地を持っている方が亡くなった場合、1回解除ができるので、少しずつ農地が減ります。練馬区では、10年前に200ヘクタールぐらいありましたが、最近は180ヘクタールぐらい。年間で2ヘクタールから4ヘクタールぐらいが相続でなくなっています。ただ、これからは人口減少社会で、宅地の供給も少なくなり、農地が維持される方向になるかもしれません。
「食料農村基本法」や「都市農業基本法」など農地を守るような法律的な枠組みと、消費者の方の応援的なものも含めて、農家にとって農業がやりやすい状況になったと感じています。
1996(平成6)年に農地を選ばなかった方のほとんどは、30年後、マンション経営に携わっています。私のように農家を選んだ人は変わり者かもしれませんが、こだわりや誇りを持って、ご先祖さまの土地を農地として維持している。そうした農家の方が、東京にたくさん残っています。その思いも汲み取っていただき、われわれの作った野菜を取り扱ってもらえるとありがたいです。
◇江戸東京野菜について
私は20数年前から江戸東京野菜に関わっています。JA東京中央会の認定委員会のメンバーになり、年間1〜2種類の野菜を調査し、江戸東京野菜として認定しました。当初16種類ぐらいでしたが、今は50種類を超えています。数は増えましたが、生産はそれほど増えていません。食べ方がわからないと買ってもらえないので、八百屋のみなさんには、江戸東京野菜の食べ方を少しずつでも広めていただけるとありがたい。買ってくれれば作る人はいると思います。
「後関晩生小松菜」は、後関種苗が育種した固定種で、品種改良されておらず、一度途絶えていました。一般の小松菜と比べ、色はやや薄い感じですが、江戸時代の小松菜に一番近いといわれています。病気に弱く、結束するときに折れやすい、など作りにくく、生産は非常に少ない状態です。
「のらぼう菜」は、秋川や羽村周辺で作られています。菜の花の一種で、苦みはあまりありません。かつて多摩地方で、ほかの作物がとれなかった時期にも「のらぼう菜」は採れ、食料難を救った、といわれています。秋川には自家採種をしている方もいて、こだわって作った「のらぼう菜」をファーマーズセンターに出している方が多いと聞いています。興味があれば足を運んでみてください。
「三河島菜」は、江戸時代から荒川の周辺で作られています。野沢菜に近い形で、結球はしません。漬けものにすることが多く、鍋に入れてもおいしい。シャキシャキした歯ざわりで、クセはなく、白菜とは違う味わいです。三河島菜を卸している日本橋の天ぷら屋さんでは、細かく刻んで、最後のご飯といっしょに出してくれました。ていねいな仕事をしてもらえて、農家としては嬉しかったです。
「馬込三寸にんじん」は、馬込方面で作られていましたが、1回生産が途絶えました。江戸時代のにんじんは長く、掘るのが大変で、作りやすいにんじんが求められ、昭和初めに9センチほどの三寸にんじんに切り替わりました。種は売っておらず、自家採種しています。交配しやすいため、このにんじんだけを作って種を採るので、非常にコストがかかります。味は、あくの強いにんじんという感じです。子供は苦手かもしれませんが、加熱したときの甘みやうま味は、今の改良されたにんじんにはない味で、こだわりのある日本料理屋さんなどには人気があります。ただ、数は作れません。
「東京べか菜」は、江戸川のほうでよく作られています。「後関べか菜」は後関種苗が育種したものです。栽培期間が短いため、宇宙空間で栽培する食料として有望ではないかと、国際宇宙ステーションで栽培されたことが話題になりました。結球しない白菜のような感じで、煮ものや漬けものに食べやすい野菜です。
「練馬大根」は、私が最も得意な作物です。江戸時代、綱吉が将軍になる前、江戸城で病気になってしまい、陰陽師にみてもらったところ、「名前に馬がつく土地で養生すると良くなる」と言う。そこで、城の北東にあった下練馬村に御殿を建てて養生した。下練馬村では米が採れず、農民は貧しかった。見かねた綱吉は、尾張から大根の種を取り寄せて農民に配った。この地域の土は関東ローム層で大根の生育に適しており、非常にいい大根ができた。綱吉の病気が治り江戸城に戻った後も、「いい大根が採れたら城に持ってくるように」と言われ、将軍さまへの献上大根になったのが、「練馬大根」の始まりだといわれています。
「練馬大根」が全国的に有名になったのは、明治〜大正時代にかけて。「練馬大根」の漬けものが兵隊さんの食糧として使われました。その頃は練馬地区でたくさん作っていましたが、同じ畑で作り続けたため連作障害が起きた。昭和の初め頃から土壌病害でだんだん採れなくなり、1945(昭和20)年頃にはほぼ絶滅して、キャベツ畑に変わっていきました。
1989年平成に入り、当時の練馬区長が、「練馬区に本物の練馬大根はないのか」と調査したところ、練馬のある農家が細々と守り続けていた種が見つかった。練馬大根の復活事業には区の助成もあり、その種から少しずつ増やして、現在は区内に3ヘクタールぐらい栽培していると思います。直売所で販売したり、漬物屋さんに卸したり、学校給食にも提供されています。練馬大根のおろしとツナをのせた「練馬大根スパゲッティー」は、ずいぶん前から給食の定番で、区民のソウルフードです。
話を綱吉に戻すと、私が調べたところ、綱吉が取り寄せたという尾張には「練馬大根」に似た大根はありません。愛知の伝統大根といえば、「宮重大根」、「方領大根」、「守口大根」など。どれも「練馬大根」の形をしていません。綱吉はいったいどこから種を持ってきたのか、ミステリーです。
農政の話と江戸東京野菜の物語を聞いていただき、ありがとうございました。少しでもみなさんのお役に立てればうれしく思います。八百屋さんのご活躍は、東京で農業を続けている農家にとって、すごく力になります。私も一生懸命頑張っていきますので、みなさんも引き続きご協力をお願いします。
◇江戸東京野菜と東京産野菜の写真
後関晩生
(江戸東京野菜)
のらぼう菜
(江戸東京野菜)
奥多摩わさび
(江戸東京野菜)
早稲田みょうが
(江戸東京野菜)
立川うど
(江戸東京野菜)
かつお菜
(東京産野菜)
赤軸ほうれん草
(東京産野菜)
あやめ
(東京産野菜)
グリーンアスパラ
(東京産野菜)
アリッサム
(東京産ハーブ)
【八百屋塾2022 第12回】
挨拶
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修了証書の授与
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記念講演「都市農業の現状」
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ベジフルフラワーアート体験
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