■2023年8月20日 第5回 なす・シャインマスカット 〜 講演「なすについて」 中島菜圃 七代目 土田重兵衛氏
◇はじめに
  • 新潟県長岡市、中島地区から来ました。

  • 本名は別にありますが、農業の時には「七代目 土田重兵衛」で通しています。初代重兵衛から、代々野菜をなりわいとして生きてきました。私は七代目、およそ200年の歴史があります。

  • 今年は雨が降らず、畑も田んぼもひび割れています。井戸水を汲んでトラックで運び、朝と夜3回ずつ、なす畑に水を撒いていますが、それがほぼ1日で干上がる状態です。毎日、その作業に追われており、今日の講演の準備が十分でないことをご容赦ください。
中島菜圃 七代目 土田重兵衛氏
◇長岡のなすについて
  • 長岡の中島地域は信濃川のすぐそばにあります。駅から1キロぐらいの住宅地です。

  • 新潟県は米という印象があります。長岡も同様ですが、江戸時代末期から中島地区は田んぼがわずか、畑がほとんどで、うちの畑で採れたものは、長岡のお殿様に毎日の食材として出していました。

  • 江戸時代、中島地区は、侍用の馬の飼料を作る場所として取り上げられてしまいました。何十年も嘆願して返してもらい、開墾して田んぼにしましたが、安政5年(1858年)、信濃川の洪水により、すべてがれきの山になりました。改修が不可能で、畑にするしかありませんでした。

  • 畑作には、種と技術が必要です。江戸末期、日本では野菜の栽培技術が確立されつつあり、新潟県田上町には、江戸から技術を習得した農家の方がいました。種と技術は非常に大切で、門外不出でした。田上町は長岡からおよそ50kmあり、徒歩か、川船で信濃川を下って、スパイに行ったそうです。

  • スパイ活動より縁組のほうが早いと、中島の農家は田上町からお嫁さんを迎え、貴重な種と技術をもらいました。その種が長岡の巾着なすだといわれています。

  • 長岡の蔬菜栽培は、信濃川の水道タンク(旧中島浄水場配水塔周辺、現・水道公園)周辺の中島地区で行われてきましたが、昭和中期から農家が減少し、今ではうちだけになりました。よく、高齢化が原因といわれますが、そうではなく、野菜の栽培では生活できないからです。
◇長岡のなすについて調査するに至った経緯
  • なすは長期栽培ができるので、比較的収入が得られます。長岡でのなす栽培は、種播きが2月下旬から3月下旬。ビニールハウスで行います。定植は5月の中旬以降です。収穫は6月の下旬から始まり、9月の中旬、長い時は10月の終わりまで、およそ3〜4ヶ月続きます。

  • 父の時代は大変でした。日の出前から畑でなすを収穫、夕方までサイズごとに分けて箱詰めし、夜8時、9時にトラックで市場へ運びます。なす1つ1円程度で、出荷するほど赤字なので、父は夏の期間70km離れた上越市に出荷しました。帰宅は深夜0時過ぎ、朝はまた4時起き。7月の終わりから9月の頭まで続きます。中島の野菜農家はみんなそういう感じでしたが、宅地化され、うち1軒だけが残りました。

  • 消費者や流通業者が農産物の価値を認め、適正価格で買ってもらえれば、跡継ぎも伝統野菜も守れます。そうでないと税金をかけて新しい農家を育成しても無駄ではないかと思います。

  • 長岡の巾着なすは「中島巾着」が正式名称ですが、青果市場では「長岡巾着なす」という名で売られ、別の地区の農家がマスコミに登場して、うちの何倍、何十倍もの値段がついていました。

  • 父は2009年にくも膜下出血で倒れました。「中島の歴史があるなすは安く、無関係のなすが高く売られている」と嘆いていました。それからおよそ6年、私は長岡のなすについていろいろな人に話を聞き、資料を集める活動を続けました。

  • この過程で巡りあったのが、新潟県の園芸研究センターで育種を担当していた方です。私の圃場を検証し、新潟のなすに関する配布資料の作成を推し進めてくれました。もう一人は大阪の「なにわ伝統野菜」を立ち上げた方。この二人のおかげで、大学教授や大阪の農園とつながりができました。

  • 長岡市が1931年に発行した、長岡の農業の進歩に関する資料には、明治時代、「中島の蔬菜は特殊の技術を有し、ねぎ、つけな、かぼちゃ、なすなど皆『中島』を冠する特種の良品を育成し…」と書かれています。

  • 遺伝子検査によって、長岡の「中島巾着」は、遺伝子的にほかに類がないことがわかりました。

  • 長岡市が制作した「長岡美食材図鑑」には「中島巾着」が載っています。
◇「中島巾着」の歴史
  • 「中島巾着」を初めて作ったとされる方のご親族にも、お話を伺いました。田上町からお嫁に来た方はツツガムシ病という高熱病で亡くなり、大変な苦労があったようです。こうして地域の人たちが培ってきた技術と種が、「中島巾着」として残されています。

  • 「中島巾着」は、長岡ではふかして食べるとおいしいから広まったといわれていますが、違います。昭和初期まで、長岡では薪は冬場の煮炊き用として大変貴重でした。夏に蒸すために使用するはずがなく、味噌汁に入れて食べられていたと思います。

  • 冬はほぼ4カ月雪の中です。2階の窓から出入りし、食べものは蓄えておきます。秋に採った大根やキャベツを雪の中に保存し、それが尽きたら漬けもの、味噌漬けやかす漬けです。下漬けが必要な大根やきゅうりなどと違い、「中島巾着」はそのまま味噌漬けにできます。お盆過ぎに採ったものはほぼすべて漬けものにされました。長期保存食としてすぐれた特性があったので長岡に広まったのです。

  • 「中島巾着」のふかしなすは、お盆前までの、漬けものにできない時期の食べ方でした。

  • 「中島巾着」は、肉質が非常に緻密。煮崩れもしないし、漬けた時にへたらない、容量が減らない、という点が非常にすぐれている、といわれています。

  • 「中島巾着」の食べ方は、中島の農家が、県の技術指導の担当技師といっしょに研究した結果、ふかす、煮る、漬けものに向いており、中でも一番は長期の漬けものだったということです。
  • 「中島巾着」は扁平楕円形で縦に筋が入るのが特徴ですが、丸形で全く筋のないものも出ます。これは、明治時代、「中島巾着」以前に、長岡で作られていた在来なすの血が混ざったものです。

  • 「中島巾着」は晩生、「梨なす」は早生。長岡には中生のなすはありません。夏場は浅漬けや生で食べられる「梨なす」を食べて、他の時期は「中島巾着」。限られた農地を回していくには、中生は中途半端でした。1935年頃までは中生も作られていたらしいのですが、1938年から「梨なす」が作られるようになり、中生は不要になりました。
中島巾着
◇「梨なす」について
  • 「梨なす」は、1938年に祖父が種を手に入れて作り始めました。うちでは「本当の梨なす」と呼んでおり、かつて大阪の泉州にあった水なすと同じものです。現在、流通している「泉州水なす」は、「澤なす」と「新橘真」を交配したF1固定種です(「新橘真」でない品種との交配固定種の「泉州水なす」がある可能性もあり)。

  • 新潟市に近い下越地方というところでは「白十全」「本十全」もしくは「十全なす」として作られています。

  • 2014年、大阪の農学博士に「本当の梨なす」を見てもらったところ、昔の「泉州の水なす(澤なす)」であると確信されました。2016年、博士の紹介で貝塚市の農家がうちに来られ、以来「本当の梨なす」と「泉州の水なす」について共同研究調査を行うようになりました。2017年に、ほかに譲らないことを条件に種を差し上げました。その方はその種で昔の「泉州の水なす」を復活させ、今年、なにわの伝統野菜として認証されました。2025年の大阪万博で、世界に向けて、大阪の伝統のなすとして売り出されるということですから、みなさんもぜひ買ってあげてください。

  • 「黒皮の梨なす」は、1945年頃(1944年説あり)に長岡市大島地区の種苗店で種子が販売され、長岡市全域に広まったとされています。その後、昭和30年代以降に新潟県三条市の種苗店が「黒皮の梨なす」の種子を「黒十全」として販売しました。長岡の「黒皮の梨なす(黒十全)」は大阪の「F1泉州水なす」の種を入手した種苗店または生産者が元種で、それが固定化されたものである可能性が高い。ですから「梨なす」には、うちの「本当の梨なす」と「黒皮の梨なす」の2種類があることを覚えておいてください。
  • 江戸時代の『本草図譜』の中に描かれている巾着なすは、「梨なす」の脇芽につく奇形にそっくりです。当時の「巾着なす」とは品種ではなく、こうした奇形種の可能性があります。その時代の図鑑や資料は、現代の分類にはあてはまらないこともあります。
奇形種のなす
◇なすの栽培等について
  • 「中島巾着」は、継ぎ木をせずに性質を保ってきたため、病気が発生しやすくなりました。新潟市農業研究活性化センターの協力で高接ぎや多段接ぎなどの試みを行いましたが、枯れてしまいました(半身委縮病)。新潟県園芸研究センター保存の種子苗を分けてもらい、わが家の「中島巾着」との比較調査および種子系統保存を行っています。

  • 「梨なす」には2種類あり、大阪の「澤なす」に近い白十全系の「本当の梨なす」と「黒十全系」を採種しています。つぼみのうちに虫がつかないようにネットをかけ、花が咲いたら受粉させ、またネットをかけ、ある程度になったらネットは外します。およそ50〜60日、木につけておき、採った後はしばらく自宅に保管。その後、種を取り出して保存します。保存は、アルミのパウチに入れて、冷蔵庫で保管しています。2015年に採種したものは、今でも60パーセント以上の発芽率があります。毎年、採種をして、そのうちの3年分を同じ畑に植え、ほかの血が混じってないかどうかを確認。それを10年以上続けています。こうしたことにより、性質の保持を確認、いい種、悪い種を選別しています。

  • 「中島巾着」からまれに発生する、長岡在来の中生の性質を有する種も採っています。代を重ねれば先祖返りを起こすこともあるのではないかと思い、採種しています。

  • 長岡の巾着なすを初めて作ったとされる家には、「中島巾着の木には三種の実がなる」、つまりいろいろな形の実がなる、という言い伝えがあります。その中で横長の偏平でシワの深いものを採種することによって、性質が守れる。うちでは種を冷蔵保存しています。

  • 父が残してくれた種もありますが、保存状態によって発芽能力を失っていることがあります。新潟県の農業試験場などで発芽試験をしてもらいましたがダメでした。今、自分が作っている種との違いを見極めたかったのですが、残念です。

  • 大阪の「馬場なす」は、種を一切他には出さずに守っています。「馬場なす」は、「本当の梨なす」とよく似ています。ヘタをめくると、緑色です。固定化された「泉州の水なす」は紫色です。
◇質疑応答より

    Q:「はるか梨なす」はF1を固定化させたものですか?
    A:固定させても管理をしっかりしないと性質がどんどん変わるので、「はるか梨なす」は毎年交配させ、種を採っています。交配用の2つの品種を作り、F1の種を作って、次の年にその種で「はるか梨なす」を作る。「はるか梨なす」を作るためには、交配する2種を作り続けなければなりません。「はるか梨なす」交配用2種の基種はわが家にしかないので他では作ることができません。

 

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